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網野善彦さん語り

聖徳太子の愛犬が奈良県王寺町のゆるキャラになったという記事を以前に書いたことがあります。 

これがそれ。→ 「雪丸という犬」

その際、「丸」のつく名、いわゆる童名(わらわ・な)について、歴史学者の網野善彦さんがおもしろいことを述べておられるので、それを次回紹介します。-そう言って記事を締めたのが5月...。

 

 網野さんは、著書「日本の歴史をよみなおす」の第三章「畏怖と賤視」において、中世における非人、河原者等が社会的にどういう身分のひとであったかというテーマについて、「学界のなかではまだ市民権を得ていない考え方(この部分の最初の刊行は1991年)」であるとことわりつつ、非人は一般の平民百姓や不自由民である下人とも異なる、神仏直属の神人(じにん)、寄人(よりうど)と同様の身分であり、ある種の職能民であった、そう持論を述べておられます。(以下、要約)

 非人あるいは犬神人(いぬじにん)の職能とは様々なケガレ、すなわち死穢・罪穢・産穢などを清めるということと、もうひとつは祇園祭で鉾を持ち先頭に立つ、あるいは天皇の近くに行き千秋万歳(せんしゅう・ばんぜい)を祈るといった芸能である。
こういう地位・役割を明確に社会のなかであたえられている点などを考えると従来の主流の考え方、-「犬」という字がつき、また「非人-人にあらず」ということから、平民の共同体から排除された身分外の身分であるという理解は間違っているのではないか。
 12世紀、13世紀の社会では、人々はケガレを忌避し嫌悪するだけでなく、(人知を超えた災いをおよぼすものとして)畏怖の感覚をもっており、そのケガレを清めるという一般の人間にはできない職能を持っているがゆえに、非人は神人・寄人、神仏の直属民という社会的な位置づけをあたえられていたのである。

と、このような理論を展開されている中で、それに付随する問題として「丸」をつく名を持つ人々を取り上げておられます。

 広義の非人である河原者や放免の人たちが「丸」のつく童名を成年に達した大人でありながら名乗っており、それが社会的な慣習であったことが資料から観察される。こういう童名を名乗る成人はたんに名前だけでなく髪型も髻(もとどり)を結わない童姿をしていたとみられる。放免のほかでは、京都の北に住む八瀬童子と呼ばれる、貴人の輿や棺をかつぐ人たちも「丸」をつけていて、童子ということからもやはり童姿であったと考えられる。
ここで問題なのが、「神仏の直属民」という解釈が難しい牛飼や鵜飼、猿曳(さるひき)も「丸」を名乗っていたり、童姿であったことである。
 これはどういう説明が可能なのか。
 中世前期までの牛や馬はまだ野獣に近く、「人の世界をこえた存在」、「虐待すると仏罰をうけるような」存在であり、それを扱う人たちは聖別される側面を持っていたのではないか。

 人以外に「丸」をつけられるものを挙げてみると、鷹や犬などの動物、あるいは鎧や兜、刀がある。ほかには笛、笙、篳篥(ひちりき)などの楽器や船。これらは、みないわば聖俗の境界にあるものである。鷹や犬などはそういう存在であるし、当時の楽器はまさしく神仏の世界と俗界を媒介するものである。船や刀や鎧も人が危険な場所で命を託すもので、なんらかの呪的な力を与えたいと思うのは当然であろう。
こうしたものになぜ童名がつけられたかということは、この時期、「子どものいうことは神の意思を体言している」というような、童自身が聖俗の境界にある特異な存在という考えがあったということと結びつく。のちに「七歳までは神のうち」などといわれるのもその流れをくんでいる。
こういうことから、童名をつけている人についても、中世の前期までは、聖別された一面があったといえるのではないか。

 非人や河原者への聖別視はしだいに薄れ、13世紀末には「穢れ多い」悪人であるとする差別意識、卑賤視が社会の中に現れてくるのですが、網野さんはこれを社会のケガレに対する観念の変化-人々のケガレを恐れ畏怖する意識が消え、代わりに、これを忌避し、汚穢として嫌悪するような意識が強くなってきたということを考えうる理由として挙げておられます。


「丸」についての記述は大体以上ですが、これは「日本の歴史をよみなおす」で扱っている内容のほんの一部に過ぎません。
少しでも興味をひかれたなら、ぜひ網野さんの本を手にとっていただきたいです。

「農村を中心とした均質な社会」と従来説明されてきた中世日本。それに疑問を呈し、それまでほとんどかえりみられることのなかった職能・芸能民に光を当て、真実の社会像を探ってきた網野さん。現代の社会通念・既成概念を注意深く排除して史料にあたることが、科学としての歴史学に重要であると語る網野さんの本はとてもおもしろく、またハッと目からうろこが落ちるような衝撃を受けることもしばしばです。今から七百年、八百年も過去の事象がけっして現在と切り離されたものではないということは網野さんの著書を読むたびに感じることです。


残念ながら、網野さんは2004年にお亡くなりになりました。私は数ある彼の著作うちの数冊しか読んでいないので、ここでお薦めを挙げるのもはばかられるのですが、やはり網野さんを有名にした「無縁・公界・楽 -日本中世の自由と平和」(1978初版/平凡社)と先に取り上げた「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)はとても良い本だと思います。前者は学術書で、少し理解するのに骨が折れるのですが、後者は教養の学生を対象とした講義が元になっているということで、極めて平明で読みやすいです。ただ、岩波書店から全集が出るという噂を数年前にちらりと耳にしたので、本の購入を考えていらっしゃる方にはそちらを先にチェックされることをおすすめします。重複してはもったいないですから。

最後に、「増補版 無縁・公界・楽」に同じく日本中世史家の笠松宏至さんが寄せていらっしゃるあとがきからの抜粋です。

「~ その当否をも含めて、私はこの本が長く長く書店の棚にあることを期待する。何故なら、人々がこの本から何の衝撃も受けずにすむ時代が、何年か何十年か、もしかしたら何百年後か、果たしてやってくるだろうか、それをさえ疑うからである。」



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うわー、ブッチさんて真面目なんですね。
こんなカッコいい文章、わたしは歴史とか苦手でむずかしいです。

>ライオンのバブーさんへ

そうなんですよ。真面目で苦労してます。(自分で言うとか...プッ!)

外国に住んでると、自分の価値観とか道徳観ってどこにルーツがあるんだろう?って思うことが多々あるんですよね。そういうわけで歴史にも目がいくわけですよ。海外組はこういう人、けっこう多いんじゃないかなぁ。

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