ここに一冊のノートがある。
表紙には、波が打ち寄せる砂浜のモノクローム写真。そして俳句。
「春の海 終日(ひねもす) のたりのたり哉(かな)」
与謝蕪村である。
英国でデザインされたとはにわかには信じがたいこの激渋ノート、実は私の「なんでも帳」である。
買い物リストから、各種パスワード、親戚の住所、漫画のネタ、グリッシー二(イタリアの細長いパン)のレシピ、果ては枕カバーの黄ばみを防ぐ方法に至るまで、何でもかんでも書き込んである、機密度最高レベルの代物なのだ。
その中にひとつ、私がとある本から書き写した一節。
He is now a little ahead of me in bidding this strange world farewell. That means nothing. For us devout physicists, the distinction between past, present and future likewise has no significance beyond that of an illusion, albeit a tenacious one. -Einstein, "Speziali" 1972 :215 "The Labyrinth of Time : Introducing the Universe" by Michael Lockwood より一部抜粋
そして、以下が私の拙訳。(いまいちな出来ではあるが)
彼は、私より一足早く、この奇妙な世界に別れを告げた。とは言え、ただそれだけのことだ。我々、物理学に心を捧げた者にとっては、過去、現在、そして未来、それらを区別することに何の意味もありはしないのだから。所詮、幻に過ぎないのだ。いかにそれが堅固なものであろうとも。
かのアインシュタインが友人の死後、その家族に宛てて送った手紙の一部 - そのようにこのロックウッド氏の本には説明されていたかと思う。(ちなみに原文はドイツ語であったのを、このロックウッド氏が自身の著作の中で英語に翻訳している)
私はこの文章に何とも言いがたいロマンティシズムを感じる。もちろん、そんな文学や芸術めいた受け取り方は、書いた当人にすれば不本意であるに違いない。なぜなら、アインシュタインにとっては、それは比喩でもなんでもなく、真実を率直に述べたに過ぎないであろうから。
昔から、「死んだ後はどうなるんだろう?」とか「空間が無い状態ってどんな状態なんだろう?」とか、はたまた「私が見ている世界は実在しているんだろうか?」、「『実在する』、ってどういうことなんだろう?」とか、ズブズブと思考の底なし沼に沈んでいくのが好きな子供だった。残念なことに、どうも頭が文系仕様らしく学生時代は数学や物理に苦しんだが、今は試験に悩まされることもないので、自分のペースで楽しく一般向け科学書を読んでいる。化学系でも生物学系でも何でも読むが、好物はやはり、「時間と空間」に関する本。これは確信であるが、それら科学書に書かれたことを私が本当の意味で理解する日は、おそらく一生来ないだろう。しかし、観念論ではなく実証的なアプローチで「答え」に近づいてゆくプロセスを読むことは、私に満足を与えてくれる。いつか、「過去や現在、未来などというものは錯覚にすぎない」という言葉にロマンティシズムを感じるのではなく、(それがどうやら事実なのだろう)と深い納得を持って受容できるようになる日が来るとすれば、それが私がたどりつける一番遠い場所のように思う。
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